日々是書評

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五輪と戦後: 上演としての東京オリンピック - 吉見俊哉

レビュー

2021年、コロナ禍の中で強行開催されたオリンピック。

自分はやや反対派だったけれど、オリンピックの歴史に詳しくないことに気がついた。

オリンピックとは何なのか。それがたどってきた歴史はどのようなものだったのか。ここらで学ぶ必要があると思った。

そこで手にとった本書。大変おもしろかった。

オリンピック自体がたどってきた道だけではなく、それが日本にどのような影響を与えたのか。アジアにとって、五輪とは何だったのか。

とても詳細に書かれ、大変学びのある1冊だった。

欲を言えば、IOC という団体や、アジア以外のオリンピックについても書いてほしかったけれど、それは筆者の得意とする分野ではないのかもしれない。

オリンピックの全体像について知るには、あと2, 3冊必要かもしれない。

序章

東京オリンピックの構想は2000年代初頭に、石原慎太郎の思いつきで始まった。当時から、東京一極化が進む、と言った批判があった。

その後、官房長官であった安倍晋三と手を組み、スポーツ利権に敏感な森喜朗と手を組んでいった。その様相は、すっかり東京規模のものではなく、日本全体の政治的なものになっていった。

東日本大震災後、世界には日本を救おうという空気があった。復興五輪という建前を押し出すことで、世界のその空気感を利用した。東日本大震災がなかろうと五輪招致をしていたのだから、政治利用と言われても仕方ない。

また、安倍晋三の福島はコントロールできている、という発言もあった。

2020年五輪がイスタンブールでの開催となっていれば、イスラム教国での初開催という意義があった。

佐野エンブレム盗用事件について。盗用が問題視されなくとも、デザインは戦後オリンピック時代のものへのオマージュだった。つまり、前回五輪を超える何かを東京2020で表現することは、初めから難しかったのではないか。

東京2020が表現すべきは、ソフィスティケートな新しい何かだった。

当然ながら、1964年五輪への言及は、開催後減少していく。それが再び盛り上がるのが90年代。新聞紙面での「東京オリンピックへの言及が増えた。その原因として、平成への展開時に昭和への懐古が起こったこと、定年を迎えた五輪リアルタイム世代が懐古する時間が増えたこと、と筆者は分析。石原慎太郎はその世相を感じ取ったのではないか。

白黒テレビの普及は、1964年には90%に達する。つまり、1964五輪がテレビを通じた初の全国共通の体験となった。その世代の人々にとって、五輪は単なるスポーツイベント以上の大きな意味を持った。

当時の世論調査によると、「開催はうまくいかない」が「うまくいく」を上回った時期があった。

そもそも、オリンピックの理念から言えば、経済効果をあてにするべきではない。それに、経済効果には実証的な裏付けがない。

オリンピックの終わりの始まりはモスクワ五輪。西側諸国のボイコットは、理念に反する。また、ロサンゼルス五輪は商業主義と結託し、IOCは拝金主義にまみれていく。

第一章 ポスト戦争としてのオリンピック

1964五輪は、大日本帝国の軍都である東京を塗り替えた。青山や渋谷には練兵場があり、これらをスポーツ施設へと変えていった。

敗戦の時点で、日本全国には多くの軍用地が存在した。維新を経て日本が侍の国から軍人の国へと返信し、軍は巨大な権益集団だった。その軍用地の総面積は、東京や神奈川の総面積よりも大きい。

しかし、軍用地をオリンピックに利用するには、面積が足りない。そこで、米軍への返還交渉が行われる。候補となったのは、六本木・代々木・赤坂・成増・朝霞。立川や横田は距離的に少し遠かった。

朝霞のキャンプ・ドレイクが返還交渉で最も重視された。朝霞は元々ゴルフスポットとして有名だった。しかし、戦中に至るまでに陸軍の軍用地となり、そして戦後に米軍基地となった。周辺には米軍向けの歓楽街もでき、そんな朝霞に五輪の施設建設が目論まれた。

しかし、米軍が返還したがったのは代々木のハイツ。代々木での施設建設には反対の声があがった。施設建設は都市計画という長期目線で行うべき。都心でそれは難しく、しかも五輪開催が交通に影響を出してしまう。

米軍の基地返還について。大手町、霞が関といった都市部の返還は50年代に行われており、代々木・赤坂の返還がその後進んだのは、都市部では例外的。一方で、相模原・立川・座間といった郊外の基地が返還され始めるのは、70年代に入ってから。(返還されないままの基地も多い)

上述のような返還時期の差異は、米軍の駐留目的の変化が裏にある。朝鮮戦争のための駐留から、南シナ海における対共産という目的の変化があった。

当時の日本では、反基地運動が盛り上がっていた。立川の砂川裁判や、沖縄の反基地運動など。基地が目立つと、占領が続いている印象を与えて、反米感情を強めてしまう。

そこで、ワシントンハイツのような、目立つ都内の基地から返還しようという機運が米軍サイドにはあった。日本には反共の砦であってほしいし、オリンピックの手助けという名分ができる。

日露戦争後の万博は開催されず幻となってしまった。しかし、その計画からには東京の文化地政学の転換が読み取れる。元々、万博的な催しは上野で開催されていた。しかし、戊辰戦争の記憶を引き継ぐ上野ではなく、日露日清戦争後の軍事的な意味合いを持つ渋谷・青山へと、舞台が移っていった。この流れをオリンピックは汲んでいる。

1964五輪に先がけては、交通網の整備も織り込まれた。路面電車を廃止し、歩道を短縮化し、道路の高速化・高架化・地下化を進めた。

章末。東京における五輪とはつまり、カタストロフィとセット。関東大震災や戦災からの復興、そして東日本大震災からの復興。五輪それ自体は経済成長をもたらさないが、それらは結び付けられ、繰り返された。

第二章 聖火リレーと祭典の舞台―演出

1964五輪の聖火リレーは沖縄から始まった。これは、沖縄の本土復帰という政治的な意味合いを持つ。

この時期の沖縄では、キャラウェイの強権的な姿勢を受けて、親米派でさえも本土復帰を唱えるほどになっていた。そこで、那覇市長の当間重剛が、上京のたびに根回しを行っていた。

一方で、国務省ライシャワーとしては、沖縄の本土復帰は実現するべき未来だった。反米感情は避けるべきで、米軍は背景化すべき、との考え。なので、キャラウェイとは慎重に渡り合う必要があったが、1964の時点では勝負がついていたのか、沖縄から聖火リレーを始める算段がついた。

聖火は香港、台湾と経由されるはずが、台風の影響で延着となった。この時、本土との交渉で沖縄が折れて、沖縄での聖火リレーが一日短縮とされた。対案として、分火の案が出た。しかし、ここでも沖縄は本土の犠牲になるのか…という声が。

聖火リレーはもともとナチズムのプロパガンダのために始められた。ギリシャからベルリンまで聖火を繋ぎ、正当なアーリア人であるというアピールを行った。その後、ナチスの進軍は聖火リレーの順路と逆走する形で進められたので、聖火リレーの偵察説がある。

沖縄の聖火リレーでのクレイズ、つまり集団的熱狂はすさまじく、この最中に「日本人である実感が湧いた」人が多くいた。

しかし、米軍占領下で生まれ育った若者たちには、反復帰論もあった。そもそも沖縄は元々独立国。1600年に薩摩が侵攻してきて、対明貿易の利益を搾取。戦後も沖縄を切り捨てた。本土への復帰とはつまり、米軍の占領からまた別の占領下に入ること。と言った主張。

そういった半復帰論は聖火リレーで一時は抑圧的になったものの、60年代移行、学生デモと言った形で再燃する。

聖火リレーは戦前の天皇巡幸に似ているが分火できるのが特徴。期間を短縮できた。それぞれが東京を目指した。

分火した聖火は、観光地ではなく県庁所在地を巡った。これは地方―東京の中央集権的な官僚機構を表しているよう。

ナチス聖火リレーはその後の軍事侵攻と同じく道筋だったが、日本での1964年五輪のそれは、その後の高速道路開発、つまり国土開発の道筋と重なる。一方で、2020年五輪の聖火リレーは、特にその後の展望というものは無かった。

代々木へのオリンピック関連施設の建設は無秩序だった。丹下のデザイン性は圧倒的だったが、それぞれの施設は協調性を欠いていた。特にNHKは3万坪をぶんどるなど、私欲が代々木や外苑前の土地を虫食いにしていった。

一方で、駒沢オリンピック公園は長期的視野に経っていた。デザイナーの高山は、オリンピック後を見据え、地域の中の公園として設計した。さらに、土木・造園・建築など垣根を超えてディスカッションを行なっていた。

第三章 メダリストたちの日本近代 演技

1964五輪では、失敗予想派と成功予想派の逆転があった。そこには、安保から高度成長へ、という時流の変化があった。

印象に残っている競技のアンケートでは、バレーボールやマラソンが上位にくる。

ラソンに関して、円谷の活躍があった。彼は父の影響で自衛隊に入隊。当時に自衛隊が実施していた、オリンピック選手を育てるプログラムを受けた。

地方で隊員を募っていた自衛隊にとって、オリンピックは自らの存在意義をアピールするチャンスであり、全面的にバックアップした。

円谷は銅メダルをとり、オリンピックのクライマックスを飾るが、3年後には自殺。自衛隊の人事が変動したことの影響。戦争は終わったが、軍事的な組織構造は温存されたままだった。

ちなみに、日本初のメダルは円谷ではなく、帝国日本時代に孫らが取っている。朝鮮差別は解消されていなかったものの、 メダル欲しさに孫ら、朝鮮出身者を育成。メダル取得後、孫らはアイデンティティの苦しみを抱える。朝鮮ではナショナリズムの高まりが起き、「日章旗抹消事件」が起こる。これに危機を覚えた日本側は、むしろ孫らを遠ざけていった。

東洋の魔女について。当初は東洋の台風と呼ばれていたが、外国新聞で東洋の魔女と呼ばれ始めた。

女子バレーボールの流行について。そこには、紡績業界の思惑があった。地方から中卒女子を募る彼らは、レクリエーションとしてバレーボールを導入・推奨。自社のバレーチームが強くなることで、社内の女子の心情統一に繋がり、会社のブランディングにもなると期待した。

高等教育を受けている女生徒のバレーボールチームに、女工チームは負けてしまう。女工なんかに負けるなという応援があった。女工チームは猛特訓の末、リベンジを果たし、「女工に負けて悔しいか」と言った。

やがて魔女たちは奥様となっていく(選手の結婚)。60年代に始まる、工業時代から経済成長への転換と重なる。

1964年の五輪とは、田舎出身の貧しい若者が世界から喝采される舞台たり得ていた。

東京オリンピックの映像記録化について。1964年間近になり、依頼されていた黒澤明監督が辞退。代わりに依頼されたのが市川崑

市川崑の映画は、客観的な記録というよりも、選手を主体とし、選手の内面性に迫るものだった。それに対し、政府側からは反発の声があった。文部省としても、教育資料としてお墨付きを与えることが難しいといった向き。しかし、等の子どもらは映画を正しく理解し高く評価。遠藤周作なども、選手の実存に迫ったと評価。

客観性・記録性をテレビで得られる時代になり、映画の果たすべき役割が変わった。物語性を持たせたり、映像性を追求するなど。

第4章 増殖する東京モデル 再演

ソウル五輪東京五輪を意識しております、北京五輪東京五輪ソウル五輪を意識していた。

1988年のソウル五輪については、実は名古屋が対抗馬だった。というより、日本側は名古屋が勝つものと慢心していた。しかし、70年代後半〜80年代にかけてIOCは方向転換を模索していた。ソウルならば、途上国で開催という意義があった。おまけに、日本(名古屋)については、開催実績以外のアピールポイントがなかったし、名古屋内で足並みが揃っていなかった(地元政財界からの開催への疑問視など)。

また、日本の官僚機構がもつ前例主義もまた、名古屋の敗因とも言える。新しいものを創造するのではなく、成功体験を繰り返すだけという。(もちろん2020年五輪と2025年大阪万博にも言える)

ソウル五輪の時期、学生デモが盛り上がり、民主化と反米の風潮が広まった。五輪で世界がソウルに注目していることから、韓国政府は軍事力でデモを弾圧することが難しかった。

ソウル五輪の20年も前からオリンピックを見据えた開発は始まっており、招致の時点では6割の施設が完成していた。いわばソウル新都心といったところ。このことを名古屋チームは全く把握していなかった。

西側諸国の東側五輪へのボイコットという事件もあり、IOCソウル五輪に南北協力を期待していた。そこで、南北協力チームが発足し、一部の競技を北朝鮮で開催する話が進んでいた。しかし、北朝鮮はいつもどおりの土壇場での交渉を見せる。より多くの競技を北朝鮮側で主催するよう要求。果てには、韓国側の堪忍袋の緒が切れたのか、IOCがさじを投げたのか、南北協力開催の話は立ち消えとなってしまった。

これをうけて、北朝鮮側は工作員を送り込み、大韓航空機爆破事件を実行。韓国の安全評価を脅かそうとした。

この頃、4つの転換が起こっていた。ナショナル放送としてのテレビから、グローバル放送としてのテレビへ。冷戦体制の転換、韓国軍事政権体制の転換。オリンピックのアマチュアリズムから、グローバルなメディアと結びついたコマーシャルなメガイベントへの転換。

中国について。20世紀最後の五輪として、2000年の北京での五輪開催を目指して、招致を進めていた。これは、鄧小平の改革開放路線による経済成長の集大成として位置づけられていた。

しかし、天安門事件に端を発する人権問題に対して、世界は敏感だった。特に欧米は問題視し、2000五輪はシドニーに決定。ちなみに、日本とはむしろ協力関係にあり、長野五輪北京五輪という流れが期待されていた部分も。

1990年代の北京五輪の招致可否は、この時代の米中の政治的な駆け引きと不可分。

2008年五輪に立候補したのが、北京、そして大阪。北京の立候補は、前回開催地がシドニーゆえに今回開催地がアジアになる可能性が高いと見たため。

端から、大阪が選ばれる見込みは薄かった。4度目の日本開催は新鮮味にかけるし、初開催となる中国への期待が高まっていた。そもそも、日中の経済力バランスは逆転しようとしており、世界はそのことをよく分かっていた。しかし、一度決めたことを止められないのが日本の組織構造で、落選まで突き進むこととなる。

チベットへの弾圧に関して、国際的な批判ムードが高まった。聖火への妨害や、聖火リレーコースでのデモ活動など。日本でも、前回五輪の長野を聖火の出発点とする予定だった。出発地点である善光寺は、仏教の寺であり、チベットへのシンパシーがあった。そのような背景から、善光寺を出発地点とすることは取りやめとなった。

この頃、中国ネット社会では「愛国主義」が高まった。日欧米の中国への批判が帝国時代植民地支配を彷彿とさせたため。この動きに対して胡錦濤は、日本の聖火リレーは祝賀ムードの中で終わったと報道。

最後に日本について。日本は1964五輪のあとも、継続的に招致活動を行っていく。五輪のみならず、万博も同様。官僚主導のイベントとして、常にどこかの都市へなにかの招致を企画している。

札幌五輪が決まったとき。札幌が優位だったというより、他の候補地からが半ば辞退のような形となった。冬季五輪は開催地に対して、自然の豊かさを重視する。しかし、五輪を行うことで、公害レベルの環境汚染が起こってしまう可能性も。そこで、カナダは辞退したし、コロラド住民投票で辞退となった。

後に、開催地として環境問題を経験した北海道は、五輪開催の負の側面を理解した。

冬季五輪については、スキーなどの業界との密さが目立ち、商業主義的な側面が批判された。

長野五輪について。招致時にはバブル経済だったこともあり、承知に莫大なお金をかけた。が、その後バブルは崩壊。特に地方自治体である長野県の財政は逼迫。また、環境五輪を標榜していたが、実際には廃棄物問題などが起こっていた。

オリンピックが辿ってきた道筋について、世界の変化について、そして東アジアのオリンピックの反復性と差異について。p318以降にまとめがあり。

終章 ドラマトゥルギーの反転

1964東京五輪と2020東京五輪の比較。

世界の潮流は開発経済からの離脱。スローモビリティ都市としての、高速道路の廃止。

それを踏まえて、東京が目指すべき都市像が展開される。

今回紹介した本