レビュー
2019年、安倍政権下で出版された本書。
新自由主義や自己責任論がはびこったこの社会は、どうしてこうなってしまったのか、そしてどこに向かっていくのか。そんなテーマで行われた対談集。
雨宮処凛さんと6人の対談相手との対話は、それぞれ中々に読ませる。ニュース記者、精神科医、障害者施設の運営者など。様々な視点から語られる「不寛容」が、自分の強張った心を少しだけほぐしたような気がした。
「自分を愛せれば、他人も愛せる」「本音ではなく本心で話すべき」など、印象に強く残る言葉が多かった。
自分と同世代の人間や、若い人にこそ一読してほしい1冊。
引用・抜粋
序章
雨宮処凛さんによる文章。
彼女が目にした時代の変遷が描かれる。日本社会がいかにして自己責任論に溺れてきたのか。平成生まれの自分にとっては、歴史認識をアップデートする良い機会に恵まれた想い。
日韓ワールドカップ時のネット上でのヘイト書き込み、シリアから帰国したジャーナリストへのバッシングなど。この痛ましい風潮は、自分が思っていたよりも昔から始まっていたのだとよく分かった。
第一章 植松被告は私に「いつまで息子を生かしておくのか」と尋ねた
記者であり、自閉症の息子を持つ神戸金史さんとの対話。また、植松被告との面会を経験した人物でもある。
植松被告のような人物は、「国家財政を逼迫している」という偽りの大義名分を得て、障害者の殺戮に至った。自分なりの正義感がある。しかし、障害者への歳出は、全体の歳出のうちのほんの一部。
植松被告は、障害者の母親を見て「大変そうだ」と感じたと言う。しかし、母親が子どもを殺したいと勝手に想像した。
自己肯定感が鍵だというのが印象に残った。自分を愛せれば、他人にも寛容になれる。
第二章 「生産性」よりも「必要性」を胸を張って語ろう
身体障害を持ち、小児科医として働く熊谷晋一郎さんとの対話。
自身が障害をもち、さらに二人の兄弟もアトピーなどを持ってきた。彼が見てきたのは時代の良化の変遷だった。60年代には「愛と正義」から、障害をもった自分の子どもを殺すことがあった。そして70年代には、障害やアトピーは完治させるものだという空気感が広まった。それから80年代、障害者運動が広まり、「このままでいい」という流れができた。
時代は良くなってきたはずだが、植松被告のような事件が起きた。
障害とは個人と社会のミスマッチ、と熊谷さんはいう。つまり、急速な時代の変遷の中で、社会とミスマッチする人が増えてきたのではないかという分析。ロスジェネ世代もまさしくそう。しかし、そのミスマッチを説明することができず、高齢者・障害者・貧困者の中に敵を探そうとしてしまう。特権階級だ!など。
本音がもてはやされる社会だけど、話すべきは本心。というのはグッと来る。
デフレに絡めて、いま必要なのは生産性よりも需要、つまり必要性なのではないか、という話。つまり、堂々と生きていてよい。
第三章 命を語るときこそ、ファクト重視で冷静な議論を
読売新聞・バズフィードジャパンで記者を務める岩永直子さんとの対談。
新種の保険薬が出るたびに、医療費逼迫の危機を煽る向きがある。しかし、実際には技術革新や薬価の改定で対応してきた。
日本には、イギリスや諸外国のような医療系のデータベースが乏しい。個人情報を保護しすぎている傾向があり。なので、データに基づいた意思決定や政策議論などが難しい。そもそも、現政権は公的文書やデータをずさんに扱っているところがある。
人は分かりやすい方を選択してしまう。その上、ネットで大量の情報にアクセスできる現代。過激な言説やファクトに基づかない発言が注目を集めてしまう。
尊厳死と安楽死について。まずは両者を区別する必要がある。安楽死とは死が目的。尊厳死は、自然な死を待つことが目的で、鎮静を施す。しかし鎮静に至るまでにはいくつかの条件がある。他の処置が不可能、家族の同意など。しかし、その上で、鎮静の技術は医師依存。
第四章 ロスジェネ世代に強いられた「生存のための闘争」の物語
元障害者ヘルパーで、文筆家の杉田俊介さんとの対談。
2010年代というのはヘイトスピーチが噴出した時代だった。優生思想的なものと、民族・障害者差別的なものが結合してしまった。あいつらは甘えている、優遇されているという感情と、ヘイトスピーチによる「本音を言った快感」が原因ではないかと分析。
まず、剥奪感がある。特定の層の人々が、特権を享受している、資源にフリーライドしている、と言った具合。そこで想定される敵はなんでもいい。何でもヘイトのターゲットになりうる。
現代はもはや新自由主義ですらない。税金の効率的な使い方や、貧困層へのトリクルダウンなど。そんなことはすっかり高い理想になってしまった。
理性が時間をかけるのに対して、感情はスピーディに動く。その2重構造が認知科学で確認されている。しかし、非常に幼稚な感情と、ネット上の言説のデータベースが粗雑に結合されている。外部の悪意を吸い込んで、自分の人格に取り入れてしまう、AI のような人格。権威主義的パーソナリティ、自発的隷従と言って、自分から率先して権威に忖度してしまう。安倍晋三やドナルド・トランプと自分を重ねてしまう。(植松被告の特性に関して)
第五章 みんなで我慢するのをやめて、ただ対話すればいい
精神科医で炊き出しなどのボランティア活動に精力的な、森川すいめいさんとの対談。
森川さんはオープンダイアローグという施策を実施。医師と患者が話す・聞くの一方通行で権威性を帯びてしまうのを防ぐ。話を聞いてもらえることで、人の話を聞けるようになる。幻聴が薄らぐ、というより必要なくなる患者も。
思考のショートカットをしないように。増税の議論で「自分は10%でも問題ない」という人は、思考コストをお金を払ってスキップしているようなもの。高齢化についても「自分は50歳くらいで潔く死にたい」というのは、人に迷惑をかけないの内面化の最たるもの。他者にまで要求するようになれば、それは優生思想的。
第六章 植松被告がもしも「べてるの家」につながっていたら
真打ち登場感がすごい。大量殺人したいという若者と毎日40分電話をし、1年半後には寂しいという言葉を引き出す。その他にも、根気強いというか聖人のような印象を受ける向谷地生良さん。並の人間ができることではないと思う。
それだけに、語られる内容がとても重く、印象に残った。