レビュー
大変面白かった。前作の「日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか」に引き続き、本作も大変学びのある一冊だった。
日本が適切に戦後処理を終えていない、というのは何となく納得感がある。
それゆえに、日本は今でも構造的に米軍の占領下にあるのだ、というのは多くの日本人が知るべきところだと思う。
なるほど、転換点は朝鮮戦争だったのか。やり手のダレスが、穏健派のマッカーサーに取って代わってしまった。50年代のこの出来事がポイントだったのだとよく理解できた。
まだ「勉強中」と自称する筆者の姿勢は、自分と重なりとても共感できた。今後も書籍を執筆してほしいし、読み続けていきたい。
引用・抜粋
序章 六本木ヘリポートから闇の世界へ
横田空域について。日本の上空には、日本の民間航空会社が利用できない空域がある。官僚組織は縦割りなので、そのことを知らない人間も多い。CIAの人間などは横田空域経由で基地に着陸できる。日本政府は、国内のアメリカ人の人数を把握できない。
国家の要件は国民、領土、主権。横田空域は領土と主権を否定する。
横田空域の取り決めは、横田基地と東京航空交通管制部の間で為された。ただし、管制部はあくまで実務者で、裏には日米合同委員会の存在があった。
六本木の一頭地には、米軍のヘリポートがある。新聞社があり、ホテルがあり、フェンスがあり、銃を携行した警備員がいる。つまり、フルセットの米軍基地。地元住人は50年以上基地反対運動をしてきた。
ニュー山王ホテルは日米合同委員会のカンファレンスセンター。60年以上に渡って毎月、会合が行われてきた。しかし、その内容には公開義務がない。
カンファレンスでは、日本からは局長クラスの官僚が出席するのに対して、米国側はほぼ全てが軍事関係者。シビリアンコントロールの原則はどこへ…?この異常性はアメリカの国務省サイドも認めるところ。
戦後日本という巨大利権を手放したくない米軍と、それに全面服従する日本の官僚という構造が強固になっている。
歴代の検察トップは日米共同委員会の関係者。最高裁判所は自由に機能しておらず、日米共同委員会が法的権利を握っている。
どうしてこのような状況になっているのかと言うと、日本の戦後処理が終わっていないから。なぜこうなったのかと言うと、ダレスという人物が手強かったから。
戦後、リベラルは自衛隊の海外派遣を防ぎ、自衛以外の戦争を防いできた。戦後70年、立憲主義にリソースを注いで、日本政府というより米軍を縛ってきた。その鎖を断ち切ったのが安倍晋三。
PART1 ふたつの密約 「基地」の密約と「指揮」の密約
戦後から取り決められてきた密約は安保に関するものが多いが、基地と指揮に大別される。
基地に関しては、日本を基地として自由に使える権利。指揮に関しては、日本の「軍隊」を自由に使える権利。前者に関しては、日本は全面的に認めてきた。後者に関しては、これまで前者ほどには重視されず、譲歩されてきた。さらに反発を招いて前者まで失うリスクが米軍側にはあった。
日米地位協定の3条1項が分かれば、米軍が日本国内で絶大なパワーを持っていることが理解できる。
ダレスは上手いこと、好きな時に好きな場所で好きな期間、米軍を配備する権利を勝ち得た。これが評価され、アイゼンハウア政権で国務長官となり、弟はCIAトップとなり、50年代の国際政治の在り方を表と裏からコントロールした。
自衛隊は「有事の際に米軍の指揮下に入る」のではなく、そもそも最初から米軍の指揮下でしか働けない。米軍と敵対関係になったら何もできない。(武器が米軍製、米軍にGPSトラッキングされる)
PART2. ふたつの戦後世界 ダレスvsマッカーサー
1950年〜1953年というのは日本にとって歴史的な大事件が多く起こった。
戦後日本を設計した第一人者であるマッカーサーの突然の退任と、朝鮮戦争が、日本の戦後モデルの大転換を与えた。
日本の憲法の戦力の不保持と交戦権の否認は、世界に先駆けたモデルになるはずだった。が、国連の戦力提供に関する協定が結ばれずに終わってしまった。
戦後の安全保障とは、日本の安全保障と、日本に対する安全保障という2つの側面があった。
部分的講和(パーシャルピース)という考え方。日本の米軍基地は失いたくないが、地域の安定化は望むという。
ダレスはウォール街きっての弁護士で、国連憲章を執筆し、国際法を熟知している。
日本に変換されたのは「民政」であって「軍政」ではない。という言い方が分かりやすい。
戦後、「米軍=国連軍」から「米軍≠国連軍」になってしまった。その過程を以下の5つのブロックに区切ってみていく。
ここから見ていくのは、いわばマッカーサーモデルの崩壊。マッカーサーはポツダム宣言に基づき、占領の目的が達成されたら米軍は撤退すべき、の論に立っていた。しかし、本国からの意向もあり、米軍残留の路線への方針転換をし始めた。ここでダレスからの助言があった。
ダレスの助言とはつまり、正規の国連軍ができるまでの間、日米は特別協定を結び、日本は国連的存在であるアメリカに対して軍事基地を提供させる。それは国際法の上で合法、というものだった。
資本主義の人間そして経験なキリスト教の人間として、ダレスはソ連との協調は不可能と考えていた。
50年代に朝鮮戦争が起こったこともあり、日本が占領軍なしに戦後を出発するというプランはそもそもあり得なかったかもしれない。
朝鮮戦争勃発時、国連は委員会設置を発議したが、米軍が退けた。国連は国連旗の使用と、指揮権の委任を米軍に対して行った。
その後アメリカは、五大国ではなく全加盟国を加味した議決でこの状態を維持できるようにした。当時の加盟国は60、対して共産主義国は6。なので、実質的にソ連の反対が封じられた。
トルーマン大統領のとき、マッカーサーが朝鮮戦争の指揮官に任命された。出払った米軍のあとを埋めるために、吉田首相あてに軍事の再配備を命じた。日本はポツダム宣言下にあったので、逆らえるわけもなく。
日本は知らずしらずの内に、アジアの冷戦構造の最前線に立つことに。
日本の再軍備を推進したのが、GHQ 民事局のエリート軍人であるフランク・コワルスキー。
当時つくられた警察隊は、米軍基地で、米軍の指導の元、米軍の武器を供給されて作られていった。しかし、カモフラージュされており、吉田茂も警察力以上のものではないと公言してした。とフランク・コワルスキーの自伝にある。
また、海上保安庁が機雷除去を行っていた。この際爆発事故により、乗組員が死亡している。
朝鮮特需により経済的にはプラスとなったものの、軍隊の設立と、事実上の参戦。この2つによって憲法破壊が行われてしまった。
PART3 最後の秘密 なぜ日本は戦争を止められないのか
朝鮮戦争において、日本は米軍の後方支援を行なった。その後米軍は、後方支援の義務を常態化させるよう働きかけた。
1951年、トルーマンはマッカーサーの解任を発表。マッカーサーは米軍の無茶な要求への防波堤だった。「米軍vs日本政府+マッカーサー」という構図が崩れ、吉田首相はひどく動揺した。
それを好機と見たダレスは来日し、条文修正を試みた。日本の軍事支援対象を国連加盟軍に変更し、場所を朝鮮以外にも拡大。これが吉田アチソン交換公文。
有名な極東条項もこの時に追加された。それは、米軍の出動条件を「日本の安全のため」から「極東の平和の維持」に変えてしまった。これは法的なレトリックで、極東の平和のためなら、世界中どこでも米軍を活用できてしまう。
こういった取り決めが為されたのは、日本が国連に加盟する前。つまり、国連加盟国としての義務も保障もない段階で、日本は軍事支援を要請された。
砂川裁判について。1957年の出来事。米軍拡張へのデモ隊が敷地内に侵入した。この事件に対して、東京地裁は「米軍は憲法違反」として無罪と見做した。しかし、マッカーサーの政治工作により、最高裁で一審が破棄された。
日本では、憲法違反を理由に人々が権力をストップできない状態。
統治行為論は始末される必要がある。
コワルスキー曰く、「結局、民主主義とは、軍部をどのようにコントロールするかと言うこと」。日本では、軍事関係者へのシビリアンコントロールが効かない。政権与党が好きにできてしまう。アメリカでも他国でも、軍事関係者は議会で審議を経ることになっている。
あとがき
参考にすべきケースは2つある。
1つは憲法改正によって米軍を完全撤退させたフィリピンモデル。しかし、憲法を削除すると言うことは、歴史を削除すると言うことでもある。その当時の理念への敬意に欠く。アメリカのように、修正条項という形で対応するのが良いかもしれない。
そしてもう1つがドイツモデル。東西統一とEU拡大により、国家主権を取り戻した。