レビュー
平野啓一郎を初めて読む。以前から気になった作家ではあるけど。
「マチネの終わりに」は恋愛小説であり、どちらかと言えば苦手分野。
果たして、悪くはなかった。大人の男性が書く恋愛小説と言った印象。30代・40代の恋愛という、28歳の自分にとってはうっとりと見上げてしまうような話だったw
序盤ではさっそく平野啓一郎の世界に引き込まれた。
この小説の特徴として、登場人物の主張が強い。決して声が大きく騒がしいのではなく、各キャラクターが主義主張を持っている。
例えば、洋子の同僚であるフィリップのこの言葉。
いい歳して知的でない女と寝てしまうと、明け方、惨めな気分になるよ。(p.67)
これは平野啓一郎の想っていること…?と、つい深読みしてしまうw
でも、それくらいが丁度良い。主義主張の強いキャラクラーは芯があって好きだ。だから、序盤から引き込まれることができた。
蒔野の自信過剰さは読んでいて気持ちが良い。映画化でのキャストは福山雅治だけど、まさしく彼の声で再生されたw
「わたし、結婚するのよ、もうじき」 「だから、止めに来たんだよ」 牧野は、まっすぐに彼女を見つめた。 洋子は、まさにその言葉を期待し続けていたはずだった。 (p.131)
このシーン、ド直球で堪らなかった。
しかしいかんせん、中盤では中だるみ感が否めない。元来の作風なのか、文章の長さが目につく。決して読みにくいわけではないのだけど、句点を置いて剛力でねじ伏せてしまうような文章は、読み手のエネルギーを消耗させる…w
中だるみは、起承転結の分かりやすすぎる「転」にあるかもしれない。マネージャーである三谷は、ベタベタな恋の邪魔者。蒔野への恋ゆえに、洋子を妨害する。
その妨害はあからさまなのだけど、上手くいってしまう。まるで、すれ違いコントのようで、ちょっと笑ってしまったw
だけど、不器用な諦念は30代の恋愛だからこそ、なのかな。とも思った。
終盤、洋子の父であるソリッチが登場する。物語の通底にて存在感を放っていたソリッチ。その終盤での登場は、さながら真打ち登場。洋子との和解はベタではあるけど、やっぱり泣けた。「現在の自分がどう捉えるかによって、過去は変えられる」。そのテーマの集大成のようなシーンだった。
そしてフィナーレ。蒔野の演奏会を聴きに来る洋子。洋子は蒔野に気づかれなくてもいいと思っている。愛ゆえに手放せると、悟った。はずだったのだけど、蒔野は洋子の存在に気づいていて、彼女にとって大切な演目を披露する。このシーンもまた胸が熱くなった。
終盤での畳み掛けにやられた。
やや冗長さはあったけど、総体としては悪くなかった。大人の恋愛小説もたまには良い、そう思わせるだけの筆力を感じた。
以下、印象に残った箇所。
なるほど、恋の効能は、人を謙虚にさせることだった。 美しくないから、快活でないから、自分は愛されないのだという孤独を、仕事や趣味といった取柄は、そんなことないと簡単に慰めてしまう。 (p.86)
牧野のような、生まれ持った才能が、否応なく他人の嫉妬や羨望を掻き立ててしまう人間は、何か意外な親しみやすさを身につけなければ、たちまち孤立してしまうのだろうと、洋子は考えていた。(p.117)
孤独というのは、つまりは、この世界への影響力の欠如の意識だった。自分の存在が、他社に対して、まったく影響を持ち得ないということ。持ち得なかったと知ること。――同時代に対する水平的な影響力だけでなく、次の時代への時間的な、垂直的な影響力。それが、他者の存在のどこを探ってみても、見出せないこと。(p.139)
無力感に耐えているかのように、洋子はやさしかった。(p.171)
牧野は、自分のために、まるでその存在そのものを差し出して、ただ待っているかのような彼女の佇まいに心を震わせた。彼女はこんなふうに人を愛するのか――こんなふうに自分を、と。(p.173)
洋子は、音楽に、自分に代わって時間を費やしてもらいたくて(p.254)
星評価
★★★★☆